
公務員という仕事を24年続けた。
その事実は、僕の人生の半分近くを、ある種の「安定した静止状態」の中に置いていたことを意味している。組織の一員として、ルールを守り、仕組みを維持する。それは尊い仕事だったけれど、僕の中にある「落ち着きのない性格」は、その静かな水面の下で、ずっと小さな泡を出し続けていたような気がする。
退職して1年。
今の僕は、かつての自分が想像もしなかったほど、多方面に手を広げている。 「SHONAN RUNS」を法人化し、有料のプログラムやイベントを動かし始めた。部活動の地域移行という時代の要請に応えるようにクラブをスタートさせ、その一方で行政書士事務所を開業し、認知症予防や終活の普及啓発にも力を入れている。さらに、大学駅伝部のキャリアコーチという役割まで引き受けることになった。
一見すると、支離滅裂な「多忙」に見えるかもしれない。 けれど、今の僕を突き動かしているのは、戦略でも義務感でもなく、もっとシンプルで、もっとわがままなものだ。 それは、「自分にとって、興味が湧くかどうか」という一点に集約される。
「興味」という名の、たった一つの羅針盤
24年間、僕の判断基準はいつも「公」の中にあった。
けれど今は、僕自身の「個」が、すべての決定権を握っている。 「これは面白そうだ」「この問題をもっと深く知りたい」。そんなふうに、心がふっと動いた瞬間に、僕はもう走り出している。
例えば、行政書士として取り組んでいる「終活」や「認知症」というテーマ。 これは単なるビジネスのタネではない。僕自身が、人間がどうやって老い、どうやって人生の幕を閉じていくのかという、その不可逆で神秘的なプロセスに、強烈な興味を抱いているのだ。
かつての僕は、こうしたテーマを「業務」として扱っていた。けれど今は、一人の人間としての「好奇心」が先にある。その興味に従って動いた先に、たまたま誰かの助けになる瞬間がある。その順番が、今の僕にはとても心地いい。
もちろん、この「興味優先」の生き方には、厳しい現実も付いてくる。 稼ぎは公務員時代の半分ほどになった。 カレンダーから「休日」という文字は消え、朝から晩まで何かしらのプロジェクトについて考え、動いている。 かつての僕が見れば、「なんて効率の悪い、リスクの高い生き方をしているんだ」と驚くだろう。
けれど、不思議なことに、僕の心は今、かつてないほど「凪(なぎ)」の状態にある。 稼ぎが半分になったということは、僕が自分の時間を自分自身のために、あるいは僕が本当に価値があると思うことのために使えるようになったという、その「自由の対価」なのだと思えるからだ。
自分の「わがまま」を肯定する
「落ち着きがない」という言葉は、かつては僕にとって、隠すべき欠点のようなものだった。 けれど今は、その落ち着きのなさを、愛すべき友人だと思っている。 一つの場所に留まらず、次から次へと新しい関心事を見つけ、見切り発車で飛び込んでいく。
その「不完全さ」こそが、僕という人間を動かすエネルギーになっている。
僕は今、自分の「興味」を濾過(ろか)せずに、そのまま行動に移している。 「こんなことをして何になるのか」 「もっと効率的なやり方があるのではないか」 そんな外側からの声を、今は優しく無視することができる。
自分が本当にやりたいこと、知りたいことにフォーカスし続ける。
それは、ある種の「自分自身に対する誠実さ」だ。 24年間、組織のために使ってきたエネルギーを、今はすべて、自分の好奇心という贅沢な火を燃やすために使っている。 たとえそれで収入が減り、休みがなくなったとしても、僕の魂は、かつての何倍も豊かに波打っているのを感じる。
走ること、生きること、そのリズムについて
僕はこの1年、ずっと走り続けている。 物理的なランニングとしても、そして、人生という名の比喩的なランニングとしても。
ランニングの本質とは何だろうか。
それは、目的地に早く着くことではない。もしそうなら、僕たちは車や電車に乗ればいい。 僕たちが走り続けるのは、その「走っているプロセス」の中にしか存在しない、特別な手触りがあるからだ。
自分の足が地面を蹴る感覚。 肺の中に冷たい空気が入り、熱くなった体が酸素を求めるリズム。 一歩一歩、自分の重みを前へと進めていく、その単純で、ごまかしのきかない積み重ね。
ランニングをしている時、僕たちは「自分」という存在から逃げることができない。苦しさも、心地よさも、すべてが自分の肉体を通じてダイレクトに伝わってくる。
今の僕の生き方は、まさにこのランニングそのものだ。 5つのわらじを履き、見切り発車で飛び出し、試行錯誤を繰り返す。 その日々は、決して平坦な道ではない。
けれど、自分の「興味」というリズムに合わせて、自分の足で一歩ずつ進んでいるという感覚は、何ものにも代えがたい。
公務員時代の24年間が、いわば「設定されたコース」を一定のペースで歩む時間だったとしたら、今の僕は、地図のない山道を、自分の呼吸だけを頼りに駆け抜けている。 転ぶこともあるし、息が切れて動けなくなることもあるだろう。 けれど、そこには「走らされている自分」ではなく、「走っている自分」が確かにいる。
稼ぎが半分になったことも、休みがないことも、今の僕にとっては「走るための軽装化」のようなものだ。 余計な見栄や、手放せなかった安定という重石を捨てて、僕は今、ようやく自分の本来の重さで走ることができている。
人生という長い長いランニングにおいて、最も大切なのは、どこまで辿り着くかではない。 どれだけ自分の納得のいくリズムで、どれだけ自分の愛する景色の中を、走り続けることができたか。 それだけだと思う。
僕はこれからも、落ち着きのない足音を立てながら、新しい興味を見つけるたびにスピードを上げていくだろう。 その足音が、誰かの背中をそっと押したり、誰かの心に小さな灯をともしたりすることがあれば、それは走っている僕にとって、最高のご褒美になる。
湘南の風を浴びながら、僕は明日もまた、新しい一歩を踏み出す。
それは、他の誰のためでもない、僕自身の「興味」という名の、終わりのない、そして最高に自由なランニングなのかもしれないね。










